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農業の武士(もののふ)
“八田與一”さんの壮絶な生きざま

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第4号 2010/06/18より (PDF/1094KB)

 もう一人の佐野藤三郎さん
  ~農業の武士(もののふ)“八田與一”さんの壮絶な生きざま~
  (〝食糧と水〝の観点より、4月末〝烏山頭ダム(台湾台南)〝視察)
 評議員 山口 寛治 (三菱商事 前顧問・奥野総合法律事務所 特別顧問)


 八田與一さんは、1886年2月21日、金沢で生まれ、東大土木工学を卒業後、24歳で台湾総督府に勤務、赴任後は台南市の上水道工事や、桃園の水利事業を成功させ、水利技術の第一人者として認められる様になった。1918年に、洪水・旱魃(かんばつ)・塩害の三重苦に深刻に悩まされていた嘉南大平原を救う事を命ぜられ、本格的な調査に入り、予算も編成した(工事費の総決算の1/2は国庫補助。総督府費用の半分近くが、この工事に使われたと台湾の人はいう。―並々ならぬ政治力―)。

 以後10年、文字通りの粉骨砕身、台湾の人々を指導し、ダム建設に邁進、成功に導いた。素晴らしいのは、この当時アジア一といわれた雄大な烏山頭(うさんとう)ダムと16,000㎞(=地球半周分)に及ぶ網の目の如き、灌漑用水路の建設に当たり、不断に人情味のある現場責任者として農民に接し、彼等より心から慕われた、との事。徐金錫水利会会長の話では、難しい局面に多々遭遇した為、八田與一さんの銅像は困って頭に手をやり、ダムを見詰めているとの事。日本の時代が終わり、蒋介石が日本の形跡を消す事に躍起になっていた時代、農民達は、銅像をこっそりと保管、ご夫妻の墓と共に、お祀りした。

 嘉南農田水利会と農民は、報恩の志を以って過去68年余、5月8日の命日には、一年も欠かさず、墓前で追悼式を挙行している由。

 その後、八田與一さんは、1942年(昭和17年)フィリピンでの灌漑計画を命ぜられ、その赴任途上、乗っていた〝大洋丸〝がアメリカの潜水艦攻撃を受け沈没、命を落とされた。3年後、日本人は一人残らず台湾を去らなければならなくなった。

 烏山頭に疎開していた妻の外代樹(とよき)さんはご子息達に会った日(9月1日)にダムの放水口に身を投げて後を追われた。8人の子供がいて何故、自殺されたのか。いろいろ意見もあるが、武士とその妻の壮絶な生きざま(乃木大将と令夫人の例もあり)としかいい様がない。水利会会長徐金錫氏がいわれるには、先の大地震の時にも、このダムは、びくともしなかったと。

 佐野藤三郎さんが中国三江平原(世界3大穀倉地帯の一つ)の〝北大荒〝といわれる湿地帯を見事な耕地に変えられた事。八田與一さんの上述した偉大な水利事業、共に日中・日台の根幹からの友好を築き上げられたものといえる。後輩の我々は、お二人の偉業を広く顕彰する義務があると思う。

 世界最大の食糧消費国、中国。6年豊作が続いたが、これから10年続くとは中国人も思っていない。豊作と凶作は大きなサイクルを描いているといわれている。世界的に人口増加(家畜も増加)、エタノール生産も増加、明らかに供給が間に合わぬ。飢餓人口10億人が更に増える。心から、お二人に感謝したい。ダムに佇(たたず)み、思いを馳せると涙が出てくる。


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