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新潟から世界を変えた先人たち

「佐野藤三郎記念 食の新潟国際賞」に込めたメッセージ

亀田郷土地改良 芦沼から乾田へ

 亀田郷一帯を人々は「芦沼」とよび、「地図にない湖」とも表現した。農民は冷たい水に腰までつかりながら田植えや刈り入れの作業を行っていた。しかし、稲 は半ば水草のように浮いて育ち、満足のいく収穫は得られない。また海が荒れると海水が川を逆流し、稲を腐らせてしまう年もあった。農民は食料を得られない という不安を抱きながらの生活を強いられてきた。昭和16年、食糧確保という戦時行政の一環として統一機械排水を主体とした、国営土地改良事業が着手された。基幹排水路を建設し、ここに集められた水をさらに大規模排水機場を建設して信濃川、阿賀野川に排水するという大規模な事業であった。工事は戦後まで続き、ついに昭和32年に乾田化に成功、かつて「芦沼」と呼ばれた水面は広大で緑豊かな大地へと変貌したのである。 【亀田郷土地改良区HPより】

三江平原の開発(中国北東部)

竜頭橋ダム

 昭和53年亀田郷農民友好訪中団として北京に滞在していたとき、王震副総理(当時)から中国の三江平原の土地改良に手を貸して欲しいとの依頼を受けた。

 三江平原のあまりの広さに一民間人では出来ようもないとはじめは考えたが、亀田郷と同じ境遇で苦しむ農民のためこれを引き受けた。

 佐野氏が日本の民間調査団を結成し調査に着手してからも、このプロジェクトは困難を極めた。依頼を受けたのは日中の国交回復から7年後のことで国は経済 援助の窓口も開けていなかった時代。佐野氏は日本政府に働きかけ竜頭橋ダム建設への30億円の円借款供与を引き出した。1998年に始まったこの工事は 2002年供用開始され、その後徐々に灌漑面積を広げていった。豊かな農地への変貌を見ることなく、1994年71歳で没するまで私欲を捨て農民の心でこ の夢を追いかけた佐野氏の業績は、今日でも中国で高く評価されている。

佐野藤三郎氏(1923~1994)

 大正12(1923)年、下木戸(東区)の農家に生まれる。終戦後、農民組合に参加、農地委員に就任した。

 昭和30(1955)年、亀田郷土地改良区理事長となり、亀田郷の乾田化の総仕上げと、乾田化後の農業技術の確立に努めた。この経験を活かし、昭和51(1976)年から度々訪中し、中国東北部の三江平原をはじめとする農業開発の技術指導の中心者となった。

 司馬遼太郎氏の著書『街道をゆく』の中で「亀田郷には、佐野藤三郎という大変な傑物がいる」と紹介されている。